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先日、職場の人と飲む機会に恵まれた。 そこに来られた直属の上司ではない方のお話をきいていたら、とても楽しかった。 彼女は無理することなく自然にリーダーシップを発揮されていて、 それをしていることで同時にとてもやさしい気持ちになっているのがよくわかった。 その下で働いている人々も、楽しそうなのだ。 いろいろな努力が、その陰にはもちろんあるのだろうし うまくいかないことや壁にぶつかることもあるのだろうけれど 話しているときにその人が発する空気みたいなものが まわりをやさしくとりまいていくのがわかって とても心地よかったのだ。 彼女と話す事で、自分が本当に本気で生きる道を選ぶことを決めた人(職場のもと先輩)がいたことや、 壁にぶつかるたびに相談している人(そのとき一緒に飲んでいた人のパートナー)がいることを知った。 私自身も、不思議なことにとても癒されるような気持ちになった。 フィールドは違うけれども、「本気で生きること」についての素敵なモデルを見せてもらった、という気がした。 その人が本気で生きているから、周りの人にもそれが伝わるんだろう。 そんなふうに生きている人と話していると、へんにあせったり、刺激されたり、 「やらなきゃ」というような気持ちがない。 焦りや否定ではなくて、 芯のあるやわらかな肯定と、楽しい気持ちが湧いてくる。 翌朝は梅雨入り2日目の雨の日だったにもかかわらず これ以上ないくらいすっきりと目覚めた。 前日まで3日間続いていた頭痛もどこかへ行ってしまった。 素敵な話をたくさんして、笑って解放されて、私の心はとてもリラックスしたのだろう。 私もこの人のような空気を発したい、と思った。 単に同じポジションを目指すということではなくて 私もしっかりとなにかと目を合わせて生きよう、と思った。 なにかとは、「自分の心」だろう。 大切なものを大切にして、自分とよく目を合わせて、 いい顔で笑って生きていこう、と心に刻んだ日だった。 いますぐにそうなっていないことに対する不満ではなくて、 そこに至る道をこれから歩んで、いつかこの人と同じ空気で またたくさんの楽しい話ができればいい、と思った。 「楽しさ」に気づいてから、それについてのいろいろな気持ちを最近味わっている。
この世でいちばん美しい、「本当の気持ち」にしたがって生きたい。 そうすることが、きっと「大切なものを大切にする」いちばんの方法なのだろうし、 自分にとって一番自然で、一番無駄のない生き方なのだろうと思う。 誰かの言葉や本、いろいろな情報に触れていると たくさんの知恵をもらえるけれど 一方で、自分の気持ちを置き去りにしていることに 私は鈍感になっていた。 自分で気づくことは、外からの情報よりも 何倍も自分に響き、残る。 自分の心の声に耳を澄ませて、そこから湧き上る 「自分の言葉」や「声」を大切にしていこう。
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「人と違う自分の意見を言う」ということが、 どうしてこんなにおそろしいのか? しかし、とにかくわたしのなかで「他人と違う意見を述べる」ということは、 相手から嫌われることであり、 異質なものという目で見られることであり、 その人との関係が壊れてしまうこと、だった。 長い間、ずっとそうだったと思う。 それがおそろしかったから 恋人でも友人でも、心の底から楽しめて安心できるような関係は ほんとうに少ししか築いてくることができなかった。 相手の問題ではなく、根本には私の中の問題が潜んでいたのだろう。 でもいま、それがだんだんとかわりつつあるのを感じる。 「人と違う意見」とは、すなわちわたしという人間の輪郭をあらわすものであり、 それは「違う」から美しいのであって 他人に無理やり沿っていては決して生まれない自然の曲線のようなものなのだと思う。 そして、「関係がこわれてしまう」という思いが表しているように わたしの中での「人との関係」とは、どちらかがどちらかに合わせなければなりたたない というような 「無理」を前提としたものだったのだと思う。 だけど今、台湾や北海道であたたかい人たちの空気に触れて わたしは「相手を信頼する」ということをだんだんと体で覚えつつある。 別に違う意見を言ったって、関係がそこで終わるわけじゃない。 嫌われるどころか、あたたかく受けとめて、うなづいてくれる人がいる。 そういうことがあるということを、教えてくれる人たちに出会った。 それは、本で読むよりも、だれかの名言を聞くよりも、 ずっとずっと深く体に沁みわたる経験だった。 わたしはそこで、安心して思い切り自分の気持ちを表現することができる。 「大切なものを大切にする」ということについて、すこしずつ分かって来ているような気がする。 こわい部分はこわいままでもよくて、 少しずつ前にすすんでいけばいい。 気づいたときには、恐れはもう、消えているかもしれない。
「嬉しい」と「楽しい」は、ちがうよね。 「楽しい」をふやしていきたい。今のわたし。 「たのしい」は、 たとえば。満月の下で、塩むすびをたべること。 妹から、すごいぴったりなタイミングで突然メールが来ること。 そしてなにげなく私にぴったりの名言を残してくれたり。 初めて会うのになぜか懐かしい感じのするひとと、とつぜん心が通い合うこと。 どこまでいっても、ふわふわな綿みたいなものに包まれるようなやわらかい人間関係を だれかときずくこと。 プレクトラムのライブ。 たましいのつながり合う人やものや事と出会うこと・発見すること。 それらによって、知らない自分が引き出されること。 「たのしい」にむかっていくように、人のからだはできている気がする。 楽しい人やもの、ことに向かって。

tiny things

何かをみてだれかを思い出す、とか どこか好きな場所を思い出す、とか そういう小さな感情こそが、じつはとても大切でかけがえのないものだということを 長い時間押し殺していたかもしれない。 好きなものを「好き」という。 たいせつなものを「たいせつ」という。 そうやってまっすぐにじぶん自身でいる人たちに出会って 彼らがとてもいごこちのよいところに自然と運ばれていくのを見て わたしのなかのなにかもすこしずつ変化しているようです。

Light inside of me

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「歌いなよ。よかったよ。」 シンプルに、そう言ってもらえるうれしさ。 私のなかの小さな子どもが とても素直によろこんでいる。 わたしは歌うとき、いったいなにを伝えようとしているんだろう。 全身がふるえるようなあの感覚は、いったいどこからやってくるんだろう。 嘉義で友だちをみていて歌いたくなったこと、 歌っていて涙が出たこと。 歌はいつもどこかからやってきて、 わたしのなかを通り抜けていく。 あの、ことばに自分のなかのなにかをのせて、音を奏でる感じ。 自分の身体がひとつの楽器になったようになって、なにかと調和してひびきだす感じ。 歌い終わると、なにかがきらきらして優しい気持ちに満たされる。 それが大好きな人にとどくと、とてもうれしい。 自分のなかのエネルギーが満たされたとき、 純粋な光がどんどん湧き出して、私の外に向かっていく。 とてもかけがえのない光。

夜のピクニック

月明かりの下、塩むすびを食べました。 満月の光に照らしたら、つやつやの白いごはんがぴかぴか輝いて。 食べてたら、月がどんどん明るくなるように見えました。 白い光が満ちて、ものすごい輝き。 月の下でおにぎりたべるのははじめてですが、、 あたたかい春の夜、いのちのおいしさに満たされました。 どうして塩むすびだったのか? 今日は、SHIEN学という講座で出会ったあたらしい仲間(その名も、チームLOVE ! )と 持ち寄りパーティ&ワークショップだったのです。 わたしがもっていったのは、8個のかわいい塩むすび。 都内のすてきなビルの最上階で、 これまたピクニックみたいな雰囲気でわいわい食べて、 それからワークショップやったら どかーーーーん!!というようなすてきな気づきとアドバイスをうけとりました。 とにかくそれがあったので、こんな時間にブログを書いています。 いやー、すごかった。。。 帰ったら、まだ白いご飯がすこしだけ残っていて とっさに、今日メンバーの一人からいただいた天日塩(マイルドで、とっってもおいしい!) をあけて、おにぎりをつくっていました。 それをもって、自宅の庭へ。 満月と同じまん丸のおにぎりをたべてたら しぜんと気がととのうというか、ちょっと背筋が伸びるような感じになりました。 なぜか? 実は、今日はもうひとつ。 友だちのすてきな決意表明のメールをうけとったのです。 それを見て、わたしのほうが気合いを入れたくなったのか。 そういえばちゃんと塩むすびをつくったのは、彼女の家に泊めてもらった朝が初めてでした。 きっと私の奥深くでは、塩むすび=その子だったのです。 まあなんにせよ、そんな力んだものではなくて ただ単純にシンプルなおいしさに触れたかったのだとおもいます。 体はいつでも、正直だから。 それに従っていると、いろいろなギフトが舞い込んでくることに気づきました。 これからは、もっとそれにフォーカスしてみようと思います。 パワーフード、塩むすびで、夜のピクニック。 たのしい春の宵です。

そのひと皿に、込められたもの

心をこめてていねいにつくられたお料理は、人の気持ちを変える。 今日、西荻窪の「食堂くしま」で食べたかぼちゃのセージバターソースのパスタ。 真っ白な光に包まれたような味、とでも言うような。 食べた後、うっとりするくらいおいしかった。 「人が食べる姿は、神に似ている」 という言葉を思い出すような、 なんだか、食べていることがそのまま儀式になるようなお料理。 (といっても厳粛な意味ではなく、なんというか、「神に近くなる」感覚。) 一口一口、食べるたびにどんどん自分が純粋な光になっていくような感覚。 くしまさんは、いったいどんな気持ちで お料理をつくっているのだろう。 厨房に立って、丁寧に丁寧にお料理する姿は なんだかやわらかい。 火や野菜たちと、しずかに対話しているような感じ。 食べおわって駅まで歩く道すがら、 目に映るものや肌に感じるものが、とても心地よくて。 気持ちがとても、調っていることに気づいた。 ばらばらだった心と体がひとつになるような感じ。 それはとても美しい状態。 今も至福な感覚が、体中に満ちている。